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東京高等裁判所 昭和55年(う)137号 判決

被告人 松井喜代司

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人黒川達雄の提出した控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これを引用する。

所論一、は、本件被害者の自転車が、被告人車の前方で、急に一、五メートル右方に曲つて被告人車の進路に進出してくるようなことは、被告人にとつて予測しえないできごとに属し、したがつて、右被害者の無謀な走行を事前に予測して、被告人車がそのまま進行した場合における事故の発生を予見することは不可能であるとともに、被告人としては、右自転車が直進するものと信頼して自車を運転すれば足りたわけであつて、右のような事態を予見すべき義務もなかつたものであり、また、原判決が判示する警音器の吹鳴は、危険を防止するためにやむをえないとき以外はこれを禁止している法の趣旨に照らして、本件の場合その吹鳴義務はなく、さらに、予見可能性がなければ当然減速の義務もないことになつて、結局、本件については被告人に過失が存在しなかつたにもかかわらず、その過失を認めた原判決には判決に影響を及ぼすべき事実の誤認と法令の解釈適用の誤りがあるというものである。

しかしながら、被告人の捜査官に対する各供述調書及び司法警察員の実況見分調書に添付されている交通事故現場見取図(第2図)によれば、被告人は、所論のいう被害者の自転車が急に右方に曲つた地点までこれに近接するより以前に、これと約六二メートルの距離をおいた時点において、すでに自転車に乗つた被害者を発見し、しかもその自転車が約五〇センチメートルの揺れ幅で左右に動揺しながら走行していたものであることを確認している事実が明らかに認められるのである。そして、かような場合に、これを追尾する自動車の運転者として、減速その他なんらの措置もとることなく、そのまま進行を続けるときには、やがて相手方自転車に近接し、これを追い抜くまでの間に、相手方が更にどのような不測の操法をとるかも知れず、そのために自車との衝突事故を招く結果も起こりうることは当然予想されるところであつて、予見可能性の存在したことは疑うべくもなく、また、右のような相手方における自転車の操法が不相当なものであり、時に交通法規に違反する場面を現出したとしても、すでに外形にあらわれているその現象を被告人において確認した以上は、その確認した現象を前提として、その後に発生すべき事態としての事故の結果を予見すべき義務ももとより存在したものといわなければならない。所論信頼の原則なるものは、相手方の法規違反の状態が発現するより以前の段階において、その違法状態の発現まで事前に予見すべき義務があるかどうかにかかわる問題であつて、本件のごとく、被害者の自転車による走行状態が違法なものであつたかどうかは暫くおくとして、その不安定で道路の交通に危険を生じ易い状態は、所論のいう地点まで近接するより前にすでに実現していて、しかもこれが被告人の認識するところとなつていたのであるから、それ以後の段階においては、もはや信頼の原則を論ずることによつて被告人の責任を否定する余地は全く存しないものというほかない。そして、被告人は、右のように、被害者の自転車を最初に発見し、その不安定な走行の状態を認識したさいには、これとの間に十分事故を回避するための措置をとりうるだけの距離的余裕を残していたのであるから、原判決判示にかかる減速、相手方の動静注視、警音器吹鳴等の措置をとることにより結果の回避が可能であつたことも明白であり、所論警音器吹鳴の点も、法規はむしろ本件のような場合にこそその効用を認めて許容している趣旨と解されるので、結果回避の観点から本件の過失を争う所論も採用のかぎりでなく、かくしてこの点の論旨はすべて理由のないものに帰する。

所論二、は、原判決の量刑不当を主張するが、本件は、同方向に進行する自転車を追い抜くにさいして、相手方自転車の走行状態が不安定であることを認識しながら、減速等の義務を怠つて、自車をこれに衝突させ、相手方を死亡するにいたらせたものであつて、相手方にも責められるべき点がなかつたとはいえないにしても、走行する自転車の側方を通過するさいの基本的注意義務を怠つた粗暴な運転の態様と相手方を死にいたらせた結果の重大性を考えるならば、その罪責は厳重な非難に値し、被告人に交通事犯の犯歴もある点等に徴して、被告人を短期間の禁錮刑の実刑に処した原判決の量刑措置は相当なものというべきであつて、所論の諸点を考慮しても、これが重過ぎて不当なものとは認められないから、この点の論旨も理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法一八一条一項但書により被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決をする。

(裁判官 西川潔 杉浦龍二郎 阿蘇成人)

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